宮城県 歌津 海
工場敷地より海を望む

 

 当方の三陸地方での海産物事業(現・丸栄水産工業株式会社)は、明治28年(1895年)生まれの三浦栄吾(みうら・えいご)という人物より始まります。

 家が貧しく学校にまともに通学できなかった栄吾は、10歳ごろ、隣町・志津川町の農家に「丁稚小僧」として預けられたといいます。

 昔から働き者で知られた栄吾。その逸話として、「馬殺しの栄吾」といわれ、丁稚先で朝早く馬を連れて草刈に出かけ、相当の量の草を刈り、馬の背に乗せて二往復したためそう呼ばれたとか、よく働いたそうです。

 栄吾は明治生まれにしては体ががっちりしていました。甲種合格で仙台の第二師団に入隊し、除隊後は実家に帰り、同じ集落の商いの先輩に指導を受け、海産物の行商を開始。岩手県内部を中心に売り歩いたようです。栄吾の父親・大内永治郎の生地が岩手県の黒沢尻とされるため、生地とされる地域を足場に商圏を拡大したと見られます。

 

  取引先は秋田県、岩手県、青森県の内陸部が主だったようです。秋田では横手、大曲、十文字、角館、花輪と多く、岩手は、盛岡、黒沢尻、花巻、水沢など、青森は弘前、黒石などでした。

  単に天然の海藻類を採取することを業とせず、他人の採取した海産物を入札などして仕入れました。また魚介類を買い入れ、これらを加工することにより付加価値を付け、価格を設定し、販売する、それも、その地に店を出し並べるのではなく、遠隔地であるところに当時の日本通運を活用しての販売、そして利益を確保することに成果をあげました。

 海産物の種類としては、ウニ、わかめ、タコ、イカなどを仕入れ、なかでも「ウニ」は主たる商品で、長年の経験による独得の味付けであり、それが売りだったようです。また、「イカ」を細かく切り込んだ塩辛をつくり、同様に販売していました。

 

 栄吾は商売をしているのにお金のことは言いませんでしたが、自身の子供たちには「お金は一銭から始まる」と叩き込んでいたと伝えられています。吉田兼好の徒然草(第百二十八段)に「一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす」の文章があり、この言葉は「されば、商人の、一銭惜しむ心、切なり」と続きます。貧しかった栄吾だからこそ「お金は一銭から始まる」の重みを痛切に感じていたことでしょう。

 栄吾が始めた商売は大正12年創業、それから昭和、平成、令和と、今日まで受け継がれていくなかで戦争や東日本大震災など難局はありましたが、粛々と受け継がれています。

 南三陸の海とともに、今日も海産物の事業に取り組んでいます。

 

参考:三浦冨彦 著『浮世の外から』